”嫌われる勇気”、を今更読んで色々考えてみる

はじめに

はじめまして。ここのりあ、という者です。この記事は大きく分けて

  1. この本を読んだ経緯、読む前に自分が抱えていた疑問
  2. 本の内容と思ったこと
  3. 疑問に対する自分なりの答え

といった流れで書いていこうと思います。よろしくお願いします。

1. この本を読んだ経緯、読む前に自分が抱えていた疑問

私は、自身がもつある疑問の答えを得るためにこの本をKindleでポチりました。ある疑問とは「自分にとって人生の充実とは何か」ということです。

なぜその疑問に至ったかをお話します。まず私には1つ信じていることがあります。それは「この世界に絶対のルールなんてなくて、あったとしても物理法則くらいだろう」ということです。なんでそう思ったのか論理立てて説明して、といわれたら困ってしまいますが、イイカンジの具体例なら挙げられそうです。例えば「幸せになるのはお金が必要」ということばについて。小さい頃の私は、このことばを前提にして将来何をしたいかなどをぼんやり考えていました。そのことばをある種、絶対のルールのように考えていたのです。しかし現実には比較的貧しい人のなかにも幸せそうな人はいるし、逆に比較的裕福にもかかわらず不幸そうな人も見受けられました。こんな例はごまんとあり、次第に上記の信条が私の中に形成されていきました。そしてこの信条こそがはじめに挙げた疑問の核となるものでした。

信条を胸に掲げながら過ごすなかで、私はある解釈に至りました。それは「絶対のルールがないのであれば私は元来、物理法則の許す限り自由である」ということです。自由であることに気づいた私は、自分のしたいことをしたいと強く思いました。そこで生まれてはじめて私は、明確に人生の目標について考え始めたのです。はじめ、自分のしたいようにするとは享楽的に生きることそのものなのではと考えました。しかし、直観が自分の理想とは違うと、それを否定しました。そんな過程も経て、考えた末行き着いた私の人生の目標は「充実を最大化する」ということでした。

「充実を最大化する」ため私はシャープペンシルと手帳を手に、やりたいことを書き出し、いつまでに達成したいかを決め、それを叶えられる仮説を考え、今日はなにをすべき、という計画を一日単位で立てました。フィードバックもできるように仮説を定期的に見直す仕組みもつくりました。そしてそれに従って日々を過ごしました。

明日やることを確認して、床について、朝起きて、顔を洗って、やるべきことをやって...生活は一見充実していました。しかしそれとは裏腹に私は原因不明の物足りなさを感じていました。それは私が「充実を最大化する」ために立てた仮説が誤りであったことを意味していました。そこでようやく私は「自分にとって人生の充実(または幸福)とは何か」という疑問に至ったのです。

はじめは自分の常識だけでその疑問に答えようといました。私は起業がしたい、絵もうまくなりたい、音楽も作ってみたい、できる限り多くを学びたい、習得したい...私がこれらから得る充実ってなんだろうか?

私のこの疑問に対して初めて出した答えは、「充実=他者から承認される感覚」というものでした。

私は今まで自分の「やってみたい」の理由をあまり深く考えてきませんでした。なぜなら、やってみたいだとか面白そうだとか感じたら、やってみようとする理由はそれ以上知る必要がないと考えていたからです。「絶対のルールなんかなくて」、私は元来自由ならそこでの道しるべは他ならぬ自分の感情であって、それ以上(感情の要因)は細かく知る必要がない、という考えです。

つまるところ私が初めて出した答えは、私にとって「あるものにわくわくすることの主な要因はそのものの先にあるであろう他者からの承認ゆえ」という意味をもったわけです。混乱せざるを得ない結論でした。私が起業したいのは承認されたいがためだけ...?絵がうまくなりたいのは承認されたいがためだけ...?じゃあ、今活躍してるあの人が楽しそうに頑張れているのはただ承認されたいから...?承認されたいこと自体は良いも悪いもないのでしょうが、この結論の虚しさったらないわけです。

その結論を受け入れられなかった私が、とりあえず「承認欲求 本 おすすめ」と検索をかけて出てきたのが、この本でした。

2. 本の内容と思ったこと

以下まずは私なりの要約。まず私たちは幸福になるために目的論に生きるべきである。また人の悩みはすべて対人関係の悩みであり、悩み多い対人関係から抜け出すために、まず課題の分離を徹底すべきである。その先、幸福になるためには対人関係のすべてを「横の関係」にしたうえで、自分の能力の程度を受け入れ、他者を信頼し、他者を仲間とみなして他者に貢献すべきである。

ここから内容について思った事を書いていく。まず「目的論」について。そもそも私の信条的に、なんの条件もなしに「~すべき」という文言は受け入れがたい。そこで目的論を採るべきときはどのようなときか、という条件を明確にしておきたい。この本いわく、目的論は「変わる」ためにとるべきらしい。逆を言うと目的論と対をなす原因論は、殊「変わる」には不向きらしい。これに関しては大いに納得した。再びそもそも、私の信条は、思考を放棄してしまう危うさも含んでいる、と私は思う。絶対のルールなんかない、とは大抵の問いに白黒つけて答えられないともとえる。「~は悪か?」「一概には言えない」なんて風に。これではなんの判断もつかず、一切前に進めない!これは当然問題で、このなんの判断もつかないまま感情にだけ従って生きては享楽的な生き方になる他ない。そこで私は人生の目標、「充実を最大化する」という「向き」を設けた。「充実を最大化する」ためには仮説と検証を繰り返し、更新しつづけ、変わり続けねばならないだろう。それを可能にするこころの立ち居振る舞いがほしい。しかして過去にとらわれない目的論のあり方は人生の目標を達成するために採り入れるべきだと感じた。目的論は、「充実を最大化する」という目標をかなえることにおいて「正しい」考え方であると、感じた。より実践的には心身のフットワークを軽くするのに大きく役立つだろう。

「人の悩みはすべて対人関係の悩みである」について。これに関しては正直読み終えても完全には受け入れられなかった。反例を挙げようと思えば挙げられそうだが、このことばの解釈によっては納得できなくもない...といった感じだ。でも悩みの多くは対人関係の悩みであるというのは間違いなさそうである。対人関係以外に起因する悩みは悩み全体に対して無視できるほど僅か、と納得しておくことにする。

つづいて「課題の分離」について。対人関係の悩み、つまりは悩み全般から自由になるための方法の仮説として大いに納得した。実際この考え方は私を大分気楽にさせてくれた。

次に「すべての対人関係を横にする」について。この内容は僕がはじめに出した答えと真っ向からぶつかるものだった。僕ははじめ「充実とは他者から承認されること」と考察したが、この本のベースとなったアドラー心理学では人から承認を求めることを否定している。変わるため、幸せになるために、承認欲求を行動の軸とすべきではないと言っている。前述したように、私の人生の目標とアドラー心理学が目指す向きは似ている。したがって、アドラー心理学との食い違いは「絶対のルールがないのだから一概には言えない」で片付けてはいけない、一考すべきと私は思った。...アドラー氏が承認を求めることを否定する理由は、承認欲求を軸に行動することは他者の期待に応えようとし続けることで、それは他者の顔色を四六時中うかがいながら過ごすことであり、自由とは言えないから、といっていた。自由でなくては変わる、幸せになるのは難しい、といっていた。これは私が最初に出した結論を取り下げるに十分な理由だった。自分の「充実を最大化する」ためには、承認されないリスクというコストを支払ってでも、自由を選択すべきなのでは、と私は思うようになった。この本はさらにこう続けている。幸福になるためには、あらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」にすべきである、と。「縦の関係」とは人の存在価値に優劣をつけるという関係。一方、「横の関係」とはみんな同じではないが対等とする関係。また「”すべて”の~」である理由として対人関係の中に一つでも「縦の関係」が存在すると、時期に「縦の関係」優位になってしまうからとアドラー心理学はいう。私はこの「横の関係」を、「目的論ベースの関係」だと理解してみた。目的論で考えれば、極論人は何者にでもなりうる。かっちょいい感じにいうと、人はみな無限の可能性を秘めている!みんなが無限の可能性を秘めているならば、存在価値の比較だとか上下だとかはもはや意味をなさなくなってくる。そうしてできる対等な対人関係が「横の関係」なのではないかなと私は考える。はじめは耳にたこができるほど聞いた「みんな平等」という倫理観のおしつけかとも思ったが、整理して考えてみるとすでに納得していた目的論と結びつけて、「横の関係」となるべき理由が理解できたと、思う。...この段落長くなりすぎてやんわりと何言ってるかわからない自覚があるので要約してみる。他者からの承認を求めるとは他者の期待に応えんと顔色をうかがい続けることであり、そのあり方ではおそらく自分の「充実を”最大化”する」ことはできない。また「縦の関係」とはその承認欲求を助長するものであり、自分の人生を自由に生きるためにも対人関係はすべて「横の関係」とすべきである。加えて「横の関係」は解釈次第では目的論の延長にある。

「自分の能力の程度を受け入れ、他者を信頼し、他者を仲間とみなす」について。以下「自分の能力の~、」を「自己受容」、「他者を~、」を「他者信頼」と呼ぶ。文脈的に他者を仲間とみなすために、自己受容と他者信頼をすべきと書いてあったと私は理解しているが、この文言に関しては少し疑問がある。仲間とみなすためにすべきことが、その二つでなくてはいけない理由がよくわからなかった。他者信頼は直感的に仲間とみなすために必要かな、と思えるが自己受容はどうもそこに紐付けしにくかった。かといって自己受容自体は「充実を最大化する」ために必要だとは感じた。自分の能力を、できないことも含めて受け入れねば今、目の前にある課題が「勇気」で解決できる問題なのか、それとも能力が足りないのか判断つかなくなってしまうからだ。でもやはり仲間とみなすための必要条件として自己受容は理解しにくい!...と息巻いていたが、この記事を書きながら調べているうちにこの件に関しては私がこの本の文脈の意味を理解できていなかったことが発覚した。他者貢献も兼ねて次の段落に書いていこうと思う。

私は、自己受容+他者信頼→仲間とみなせる→他者貢献→幸福がこの本の後半のいわんとしていることだと思っていた。しかしアドラー心理学について語っているサイト群いわく自己受容、他者信頼、他者貢献とは幸せを感じる三つの条件だったらしい。はじめ貢献感こそが唯一の幸せだと言っているのだと思ってなんとなくの違和感があったが、そういうことだったのか。なるほど。だが一つ思うことがある。そもそも。本当にそもそもなのだが、幸せだとか充実を正確に定義する必要はあるのだろうか。もちろん、この手の議論をするのは面白い!そういう意味では確かに意味のあることなのだが、「充実を最大化する」ことをかなえるにあたって充実を定義する必要はあるのだろうか。本末転倒感甚だしいが、私は必要ないのではないかとこの記事を読みながら改めて思った。だって、例えば、充実の定義が仮に「ある脳内物質の分泌」とかになったら、「充実を最大化」のゴールは「その脳内物質の分泌を促すお薬を摂取しまくる」、とかになるかもしれない。極論だけど。でも「充実」が厳密に定義されてしまったら、その定義になにもかもが縛られて自由を失ってしまうのは確かだと思う。重ねて言うが、「充実を最大化する」ために「充実」を厳密に定義する必要は無いと思う。「充実」はときに楽しいって意味で、ときにワクワクするって意味で、ときに悲しむって意味でさえあって、定型がなく色とりどりで境目もあいまいだからこそ「充実」なんだと思う。だから自分の直観が、感情が、「充実」への道しるべたりえるんだと思う。それが「充実を最大化する」ための「充実」のあり方なんだと、思う。幸せの三つの条件は、そういう幸福論もあるんだな程度にこころに留めておくことにする。

このパートの最後に、本書に書かれていた「充実を最大化する」ためにかなり有効で本質をついていると思ったヒントについて。それは「『いま、ここ』に強烈なスポットライトを当てよ」というもの。私は「充実を最大化する」ことを目標に掲げてすぐ優先順位(機会に恵まれているか、と今熱があるか、による)をつけてこの世にあるあらゆるを学んだり経験しよう、という行動目標をつくりました。「充実を最大化する」なら好きは多い方がいいだろうと思っての、この行動目標でした。そして私はとりわけ熱があった起業、学業、趣味でそれぞれ何歳までに~という風に長期目標を立て、そこから逆算して日々やるべきこと考え、それをこなしていくようになりました。しかし結果からいうとこの方策はあまり目に見える成果がでませんでした。というか継続ができていませんでした。アハ。そしてなにより、それをこなしていく日々は、正直心躍るものではなく充実の最大化とは縁遠いものでした。今日が遠い未来のためだけの今日になっていたのです。たしかにこの方策通りに数年過ごせば遠い未来では「充実を最大化」できたかもしれませんが、この方策は肝心なはずの今の充実を軽視してしまうという重大な欠陥を抱えていました。なんなら方策通り過ごした遠い未来の充実度も「かも」の域をでないのです。「『いま、ここ』に強烈なスポットライトを当てよ」ということばは、そんな生き方をしようとしていた私にとって、本書で最も採り入れるべき教訓なのではないかな、と思いました。

3. 疑問に対する自分なりの答え

「充実を最大化する」ために「充実」を厳密に定義する必要は、ない!自分の直感と感情を信じて日々できることを真剣かつ丁寧にやることこそ「充実を最大化」してくれるんだと、思う。

おわりに

最後まで読んでいただきありがとうございました。おつかれさまでした。読んだ内容を、考えながら消化しながら書いたので一貫性のないことをしゃべっていたことでしょうが、書いていた本人は考えが深まったりいろいろ思うところがあったりしてとても楽しかったです。ただこれを書くにあたってやるべきことを一部すっぽかしてしまったのでそこは反省...本を読んで思うことがあるたびに立ち止まっていてはやりたいこともおざなりになってしまう...でもほんとうに書いてよかった、読んだことが今までに無いくらい整理された気がします...。

あらためて、一部読みにくかったり鼻につく文章だったとは思いますが、ここまで読んでいただきありがとうございました!では!